鯨を飲む

くうねるところ のむところ

冬の日/光

朝起きて身支度をしながら好きなドラマを観た。この頃は朝にMIU404を見返して、職場での昼休憩や夜にアンナチュラルを見る生活を送っている。後者に関しては見るのは初めてのため、毎話ドキドキしたりハラハラしたりしながら見ている。

本当は何もせずにゆっくりと休むつもりでいた。けれど蓋を開ければ私は機嫌良く家を後にしている。「何かをゆっくりじっくり味わう、ということから今、少し遠ざかっているんじゃないか」と、ふと先日、急にぽっかりと穴が空いたように思い至った。週末にはクリスマスなのだと気づいたとき、私は何かを待ち侘びたり、迎え入れる支度をしたりといった風に暮らせていなかったと思った。それがとても嫌だった。だからやっぱり、自分とだけ過ごす、ゆったりとした時間が必要だった。

 

風が冷たくて寒いけれど天気の良い、実に私好みの日だった。電車を降りてぴかぴかに晴れた中を歩いてゆくと、角があった。裏路地が続いているのだとばかり思っていたが、その先にちいさな神社がある。知らない神社だった。美術館へ向かう途中だったので少しだけ悩み、けれど光の射し方があまりに見事だったから立ち寄ってみることにした。境内を覆うように茂った木々の隙間から射した木漏れ日が、狛犬を照らしている。地面の砂に浮かび上がる光の影が僅かに揺れていた。暫くそれらを眺めていた。せっかくだからと賽銭を投げ入れ、お参りをする。川を渡る最中にふと橋の下を覗き込むと、二羽の鴨がすいすいと泳いでいた。覗かなければきっと私は鴨がいることに気づかずにいた。

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『テート美術館展 光 ― ターナー印象派から現代へ』を訪れた。光、というものを意識するようになってから実はまだ日が浅い。元々、強く惹かれるモチーフやワードといったわけではなかったように思う。好き/嫌いなら好き寄りの……だけどそれくらいのもの。意識するようになったのは、昨年頃に趣味で書いた小説群のタイトルのひとつに『ひかり』という言葉を含ませてからだ。その小説群の中に、光という言葉がほとんど無意識的に頻出している。文字を書き連ねる中で、そして書き終えてから漸く、自分の中に光というものの輪郭が割かしはっきりと生まれたような気がしている。以来、今まで以上にその言葉が視界に止まるようになった。

美術館内は平日ということもあってか、(それから今日は特に冷え込むと事前に予報されていた)館内には程よくひとがいる程度で、とても見易かった。展示には様々な光があった。のんびりとひとりで見て回る中で、自分の心に波を立てるものの到来を密かに待ち侘びていた。絵について深い造詣があるわけでもない。ましてや私は絵を描かない人間だ。けれど美術館を訪れるのは好きで、私はそのたびに自分が本当に好きなものを探すような気持ちでいる。漠然とした素敵だなぁ、ではなく、その先。ピンと来るもの。今の自分が何を好きであるかということ。再確認と新発見の場として、私は美術館を好んでいる。(例えピンと来るものが無くても私は美術館が好きだ。第一、そう頻繁にピンと来るのなら、多分それは少なくとも私にとっての“ピン”ではない。)

展示の数々を安らかな気持ちで眺めていた。目当てだったジョン・ブレットの『ドーセットシャーの崖から見るイギリス海峡』を目の当たりにしたとき、しばらく動くことができなかった。圧倒されていた。近くで見るよりも引いて見た方が、より海を感じられて好きだった。満足して絵画から離れたとき、二枚の絵画が並んでいるのが見えた。ヴィルヘルム・ハマスホイの『室内』と『室内、床に映る陽光』。目にしたとき、思わず息を飲んでいた。息を潜めるように暫く見つめて、それから、なんて安心するんだろうと思った。数ある光の中で、これだ、と思う。静寂を孕んだ絵。ずっと此処に居たいと思った。結局、二度戻っては絵を眺めていた。この絵はコペンハーゲンにある自室を描いたものらしい。なるほど通りで、と腑に落ちた。だからこんなにも暗いのだ。それでいて、だからこそ光を感じられる。うっすらと切実に感じた。光の少ない北欧諸国だからこそ生まれた光なのだろうとも思った。


雪と、自分の吐き出す息の白さ以外何も無い。曇っていて、大人しくて、だだっ広くて、冷たくて、開けていて、視界には雪の白と木々の暗く深い黒しかない。静まり返って何の音すら響かない。生き物の気配もまるでしない。だけど、確かに私が居て、彼らがひっそりと息づいている。そういうものが私の原風景になっているのだと思う。自分がとてもちっぽけで、無防備で、なのに酷く落ち着く気持ちでそこに居た。自然は私に目もくれない。無関心だとも、寛容だとも言える場所。雪に四方を囲まれたそこで、曇った無音の空を何度も見上げていた。頬に落ちる雪の冷たさを、刻みつけるみたいに感じながら。針葉樹の黒い影を思い出す。ぽっかりと広い雪原と、佇む私の身体。私が静謐さを好むルーツは、今思えば多分此処にある。

美術館を出てからは、ドイツ料理の店で食事をした。特にハムがどれも美味しくて、店内も穏やかで、ぜひまた訪れたい。美術館では特に気に入った作品のポストカードとブックマーカーを買った。(素敵な栞を買う、というのが2023年のささやかな目標のひとつだった。)一番気に入った『室内、床に映る陽光』のポストカードが無くてやや残念だった。本当に、私の身体によく馴染んでくれる絵だった。あまりにも忘れられず、帰りに書店に寄ってハマスホイの画集を買った。よい香りのロウソクを灯して、冬の間に読もうと思う。今日はひとまずお預けだ。なぜなら夜に、ナイトメアー・ビフォア・クリスマスを観るからだ。

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髪を染めた日、赤い靴、平らな光

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部屋に飾っている植物の鉢植えが欠けたので、新しいものを見繕っている最中だった。レジ近くの売り場にクリスマスカードが置かれているのが目に留まる。ふたりして顔を見合わせるようにしてから、お互いへ贈るカードをここで買って帰ろうということになった。ネタバレ厳禁ということで先に私がカードを選んだ。別の売り場に避難していた妹に声をかけると、今度は彼女がカードを選ぶ。その間、私は別の売り場のさして興味もない商品棚を見上げたりして過ごす。やがて買い物かごの一番底にカードを忍ばせてから、私たちはそれぞれ別々のセルフレジにて会計を済ませた。

誕生日とクリスマス、それからバレンタインにはプレゼントを贈り合うという慣習を随分長いこと続けている。いつから始まったのかはもはや記憶にないが、両親からのプレゼントが途絶えた頃だったような気がする。クリスマスという素晴らしい日を味気ないものにさせたくない、という思いが私たちの中にあったようにも思う。親しみがあってこその行為だとは思うけれど、幼い私たちはあの日確かに協力関係を築いたのだった。

クリスマスが好きだ。正確にはクリスマスの街が好きだ。深い赤と緑、シックなゴールド。浮き足立った人々の気配。静かな煌めき。ひっそりとこちらへ、何かが確かに向かってくる感じ。だから私はこの時期のことが格別に好きだ。

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木曜日。急に思い立ち、髪を染めた。うかうかしているとあっという間に年を越してしまいそうだったから。クリスマスの時期だからとかなりしっかりめに赤を入れてみると、鮮やかなピンクブラウンに仕上がった。今年買ったものの中で、ワインレッドの革靴を心底気に入っている。サイズの小さなメンズデザインのもので、スマートでシンプルな佇まいに一目で惚れ込んだ。私にとっての革靴は『憧れ』そのもので、格好良ければ格好良いほど良い。この日も機嫌よく履いていた。まるでお揃いのようだと嬉しくなり、晴れ晴れとした平日の空の下を意気揚々と歩いていく。革靴の底がこつこつと鳴るたびに染めたばかりの髪が揺れるのがうれしい。今の私は人生の中でも随分と髪が長い方で、肩甲骨の下あたりまで伸びている。このくらいまで長さがあると髪を巻き易くて非常に勝手が良い。

川のすぐ側に飲食店を見つけ、少し遅い昼食を摂る。店に入るなりテラス席と店内、どちらになさいますかと問われた。少し悩んでから「店内の、窓際の席をお願いできますか」と聞き返せば、快く頷いてもらった。途中、観光者向けの船が渡るのを二度ほど見た。光の射し込むテラス席を眺めながらドリアを食べる。丸ごとトマト、と書かれていたそれが運ばれてきたとき、まさしく本当に『丸ごとトマト』だったので嬉しくなった。なんて鮮やかなのだろう。なんて面白いのだろう。よく伸びる濃厚なチーズがフレッシュなトマトによってくどくなりすぎず、するりと平らげてしまった。何料理を扱っているのかも知らずにふらりと訪れた店だったが素敵だった。また必ず訪れよう。幸いにも、行きつけの美容室のすぐ近くなのだから。


よく晴れた冬の日だった。川に掛かった橋を渡ったときの、光の射し込み具合が素敵だった。素敵だから写真に収めた。平日の昼間特有のゆったりとした静けさを私は愛している。仕事で日々駆けずり回っているからか、この頃特に自分の時間を取ってやりたいという気持ちが増えている。それは例えば、光の明るい平日の街をふらりと気ままに歩くことだとか、観たい映画をゆっくり観るだとか、読みたい本を読み耽るだとか、好きな器に食べものを盛り付けるだとか。大それたことはなくとも、そういう時間を撫でつけながら暮らしていきたい。どれだけ目まぐるしくともね、と師走を迎え撃ちながら思う。この頃ずっと、何かがうまくできないような気持ちでいる。何かがうまく動かないような心地でいる。(特定の誰かに対する行動でも心境でもない。かなり漠然とした、強いて言うならば群衆に対する私の眼差しの話である。誰に非があるわけでも、何かしらの出来事があったわけでもない。)これが歳を重ねるということなのかもしれない。どうかはわからない。単に疲れている、というか脳の容量が足りていないだけかもしれない。ともかく優しく在りたいね、と思う。できている自信が今はあまりない。或いは、優しくできている自信が無いのなら、せめて丁寧でありたい。そんなことをふと思う。うん、それならできるかも。

すっかり大掃除を楽しんでいた

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百冊ほど本を手放すことにした。捨てることができるものを何年もの間、しかも百冊も抱えていたことについてしっかりめに呆れてはいる。けれど、いざ捨てるとなると驚くのは周囲の人間ばかりで、妹に至っては目を丸くさせながら「すごいね!昔なんて捨てなよって言われたら『そんなことができるわけがない。簡単にそんなことを言えるのは本が好きじゃないからだ!』と怒っていたのに」と言う。聞きながらバツが悪かった。そういう頃は確かにあった。酷く拙くて、幼い頃。本とは私の歩んできた道のりそのものなのだから、それを失うということに対して強い拒絶感があったのだと思う。私の人生と常に隣合ってくれた存在。とにかく必死にしがみついて、離すまいと/あるいは離されまいとしていたような頃。この道を決して途絶えさすまいと躍起になっていた頃。

そんな人間も、五年だか十年だか経つと変わるものである。今ではケロリとした顔で本を紐で縛っては積み上げ、積み上げては縛ってを繰り返している。床に座り込みながら一時間くらい黙々と。

すべてを持ったままだなんて無理だよ、とおおらかな気持ちで思っている。すべてを持っていなくても良いのだと。第一、十年前の私と今の私とでは、心も身体も違いすぎる。今の私の幼い私が地続きの存在であることは確かだけれど、既にもう、限りなく別の生きものに近しいとも感じている。当たり前だ。十年前に読んでいた本の中には、昔のように楽しめないものもある。逆に、十年前は退屈だったものの中には、今になったからこそ面白がれるものだってある。今になってようやく手を取ることができるような本もある。そういうことが私は途轍もなく嬉しかった。

空になった棚を見上げながら思う。だから、すべてを持ったまま居るのではなく、そのときそのときの私として暮らしてゆく方が私にとっては余程良い。それに例え一度手放したって、読みたくなったら何度でも書店に行けば良い話だ。行って、レジに向かえば良いだけのことだ。それができるからこそなのだとも思っている。できるということを知っている。

床を磨くのはもう少ししてから。今はまだ、積み上げられた本がそこらに立ち並んでいるために。

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中学時代からの友達らと一緒に蚤の市に行ってきた。風の強い、よく晴れた日だった。風が強いから雲がすぐに流れてゆくのだろう。空はすっきりと深い青を纏っていた。好きな空の下で好きな器を見漁り、さして迷うことなく迎え入れた。途中、あまりに風が強くて冷たいものだから、友人と共に逃げ惑うようにオープンカーへと向かい、林檎とさつまいものスープを飲んだ。まろやかで甘くて素朴で、なのにすこし特別な味がした。帰る前にちいさなツリーを買った。深い緑とくすんだブラウンに煌びやかなゴールドというシックな佇まいに猛烈に惹かれた。他にももっと色彩豊かな、それこそ赤や青の混じったものもあったけれど、友人からも「一番『らしい』のはこれ」と言われたので深く頷いて決めた。部屋に飾るとやっぱり本当に素敵で、素敵すぎてうっかり飾ったまま年を越さないようにしなくっちゃならない。

 

散らかった部屋

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8月の頭に新型コロナウイルスに罹患した。一睡もできないほどの咽頭痛に悩まされ、ステロイド投与のおかげで回復したように思えた矢先、今度は口唇ヘルペスだか咽頭ヘルペスだかあるいは帯状疱疹だか。とにかく再び酷い咽頭痛に悩まされる日々にいる。免疫が下がりまくっているのだろう。今までの無理が祟ったんじゃないかと言われるたび苦笑をしている。ああ、私ははやく元気になって、そして40%もの増量をしているらしいファミチキを食べてみたい。いつまでしているのだろう。もう暫く増量が続いていますように。

現在、割りと使い物にならない身体を携えて比較的緩やかに生活を送っている。だいたいを横になって過ごしている。やりたいソシャゲを進めたりしている。休む、ということに対する抵抗感や焦り、不要の自己嫌悪などを一切感じずに済むのは、つまるところ私自身が散々休み慣れたおかげだとも思う。財産だなとも思う。もっとも病気なぞ、しないにこしたことはないのだし、灸を据えられたような心地でもいる。

愛する漫画のうちの一つであるヤマシタトモコ著『違国日記』の最終巻を読み終えた。

思えば過去に1巻の感想をこのブログに書いている。そのくらい私にとっては衝撃的な出逢いだった。かつて私が何より欲して、今尚私が何より信じてやまない言葉がそこにあったように思う。

第1話にある「あなたは 15歳の子供は こんな醜悪な場にふさわしくない 少なくともわたしはそれを知っている もっと美しいものを受けるに値する」という言葉を初めて目にしたとき、何の前触れもなく涙を流してしまったのだった。この言葉をかつての私に差し出し続けるために私は今も人生の中に居る と思っている。ある日、大きな衝撃によってこれまでの人生と分断されてしまったこと。そうして進んだ先でようやく本当の意味で地続きになれたこと。かつて思い悩んだこともある。けれども今は、今の私が目を背けているのではなく、前へ向かうことができているのだと信じている。そのための力と共に生きているのだと。

最終巻を読みながら泣いて、読み終えて泣いて、読み返してはまた泣いた。この物語は誰かが生き方を、明日を探す物語 というよりは。そんな誰かに愛をくべようとし続ける者の話だった。そういうひとりの大人の物語だった。抱き締めても足りないくらい愛おしくて、それ以上に感謝が尽きない。私にとってこれはそういう作品だ。きっと何度でも私はページを捲るのだろう。

 

話は変わるが、半年ほど前に妹と話をしていた。その際何かの拍子に私が「あんまり欲ってないかな。今のままで十分満足してる」と言ったとき、彼女が「そうなの?私はもっともっとって欲張っちゃうし欲張りたい。じゃなきゃ何も得られないじゃん!今のままじゃん」と語った。それを聞きながら私は、言わんとしていることは確かにわかる。わかるのだけれど、と引っ掛かるような気持ちでいた。引っ掛かったまま今に至る。あの日、引っ掛かったことについて改めて考えた。

何も得られないことが一体なぜ不幸せなのだろう。突き詰めるとそこに疑問があったのだろう。本当にそんなことが幸福の不足になるんだろうか。そんなにも私たちは貧しい生き物なのだろうかと思わずにはいられない。一方できっと私の在り方は確かに何かを得ることはないのかもしれない、とも思った。事実、それは諦念だと指摘されたこともある。そんなことはないと強く思っている。消極的ではあるかもしれない。けれどそれは単に自分が本当に一番欲しいものが何かをわかっているということにはならないだろうか。私が一番欲しいのは安全と安心、そして安寧。これさえあれば他には何もいらない という私を、それではさみしいと彼女は言う。結局よく分からない、平行線上のままだ。何かを得ようと、何かを迎えようと自ら足を動かして手を伸ばし続ける生き方も素晴らしいと思う。と言うか人様の話なので素晴らしかろうが無かろうがどうだって良いのだ。あなたと私は別々の生き物なのだから。あなたはあなたで幸福であれば良い。ただ、彼女が語った言葉が全てではなければいいなと思っている。もしも彼女が正しいのならば、それこそあまりに虚しすぎる。

気まぐれでふと書いてみた。半年間、殊更触れる必要もないくらいの取るに足らない出来事だ。それでも今日ばかりは触れてみたくなった。そういう夜もたまにはある。

 

 

バカンスにて

休暇1日目。程々に早めの時間に起き、やや小ぶりのトマトを丸々食べた。身支度を済ませたら電車を使って普段は降りない駅へ向かう。夏休みが来たらホットストーンを使ったマッサージへ行くと決めていたからだ。施術を受ける前に色も形も厚さも様々な石を並べられて「好きな石を選んでください」と言われた。そういうのもあるんですねと問えば、身体の一番悪いところに置いて、悪いものを吸ってもらうのだと言われる。スピリチュアル的な物事に対する関心は薄い性だが、郷に入っては郷に従えだ。すべすべした表面を指の腹でなぞったり、手のひらに置いて重さを確認したりした。少しの時間をかけたのち、薄くて平べったい、色のやや濃い石を選んだ。表面がすべすべしていた。

レモングラスのアロマを選び、部屋に通され施術を受けた。一頻り終えた後、すっきりした身体でいれば「力を入れるのは得意だけど抜くのは下手ですね」と言われる。思い当たる節しかないような言葉に苦笑しながら店を後にした。どこへ行っても呼吸の浅さを指摘されてばかりいるのだ。一度良かったらとヨガ教室にも誘われた。実際に続けるかはさておき、行ってみてもいいかもしれないと来月の予定を脳内でこねくり回してみる。とりあえずやる、とか、したことがないからとりあえずしてみるとか、そういったことを大切にしている。好奇心の赴くまま、好き勝手にふらふらするのが好きなのだろう。

照り返しの強いアスファルトは茹だっており、とてもじゃないけど歩き続けられる気がしない。メトロを使い、家へと向かった。帰ってからは久々にTRICKを1話から見返していた。やはりほの暗さと不気味さとユーモアの塩梅が最高だった。観ていて元気が出る。とは言え新品のキャリーケースに荷物を纏め、翌日に備えてなるべく早く眠りにつく。少しの間のバカンスが始まるからだ。

 

車を走らせ、山を超え、橋を超える。眼前に広がる瀬戸内海の青を眺めていた。この辺りの海は陽気を纏っていて酷く穏やかだ。積み重なるテトラポットを眺めるのが昔から特に好きだった。この旅行のために用意した爪は海色で、視界に入るたびにきらきらと光っていて胸が踊る。おいしいパンケーキを食べてから見頃を迎えたクレメオの花畑を訪れた。ハンディファンが無いことにはどうにもならないような暑さの中、日照りを受けながら丘の上から海が見えた。大地の広さを感じながら暫くそうしていた。途中で買った瓶ビール2本(地ビール)を持ちながら道を歩いてゆく。前にも以前、そんなことがあった。旅先の酒屋で見つけた地ビールを2本抱えたまま、急勾配の坂をひとり登っていったこと。あのあとは布団を敷いてもいない畳の上で、夕食が運ばれてくるまでの間死んだように眠っていた。

とにかく夏らしいことを全てし尽くしてしまおうということで、買ったばかりのビールを飲みながらBBQで肉を焼き、薪を重ねて火を灯し、マシュマロを焼いたり手持ち花火をしたりした。汗だくになりながらごはんを食べるのって疲れるのに楽しいから困る。その頃になるとすっかり眠くて、22時を過ぎた頃にはベッドに入り眠りについた。自然な眠りはいつぶりだろうと考える。昔から眠くなったから寝る、ということが少ないように思う。眠るから眠る、と意志を持っての睡眠がかなり多い。旅先ではどうしたって生活リズムが整うので自然と寝付けるのだろう。

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朝になるとひとりで部屋を抜け出し、スマートフォンとハンディファンを手に歩いて7、8分の場所にある海水浴場まで向かう。朝の6時頃でもすっかりと夏らしい日差しが降り注いでおり、周囲に民家の少ない田舎の道はただひたすらに暑い。日陰に逃げ惑うこともできないまま、それでも海を目指していた。道を進むさなかに音が割れるほどの大音量でラジオを流す家があった。隣接した家屋があまりに少ないためか、音についてはある程度寛容なのだろうか。遠ざかるラジオの音を聴きながらずんずんと歩いてゆく。

朝のうっすらと透明な海がすきだ。幾度と私が見てきたのは南紀の海であるが、また違う面持ちをしている。人っ子一人いない海水浴場はどこかもの寂しくもありつつ、私はこんなに広い海を独り占めできることに機嫌を良くする。転ばないように足を海水につけ、海の先を見ていた。

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空と海の境が曖昧な朝が好きだ。やがてやはり暑くなり、坂道を登って部屋へと帰る。帰った頃には妹はまだ眠っていた。少し待っていると電子アラームが鳴り、やがてうっすらと瞳が開かれる。

起きてからは再び島中を巡り始める。丘の上から海を眺めたり、とびきりおいしいハンバーガーを食べたり、港へ向かって船に乗り、潮が生み出す渦を近くから見たり、顔中に潮風を感じたり。椅子に座り、扇風機の風を受けながらうたた寝をする妹をよそに津波防災に関する施設を訪れたりもした。

そうしてまた沢山眠って、やがて帰路につく。島での夜は静かだった。薪の火を消したあと、空を眺めると普段よりもよく星が見えていた。けれども昔、私がまだ14歳の頃にオーストラリアで見上げた夜空以上の空には未だ出会えていない。あのときの私は自らのちっぽけさを痛感して、そのことがじんわりと嬉しかった。鯨を見るときの心の収まり方とよく似ている。

今年の春くらいからずっとじりじりと脳の容量が減っているのを感じていて、仕事が占める割合が増しているためなのか己の淡白さなのかを測りかねている。おそらく殆ど仕事のせいなのだが、とは言えどちらとも言えそうだなというのが結論。最近は特に物事や人に対して丁寧さを欠いている自覚がある。全てに触れることはできないし、取りこぼすものもきっと多い。それについて諦めのような、割り切りのような仕方のなさを感じてもいる。好きにさせてもらおうと言うのが着地点。

もうずっと、今この時を含むこれから先の時間のことを余生だと感じながら日々を送っている。それが変わることは今のところ相変わらず無さそうだが、余生にしては慌しすぎるかもとも思う。多分この暮らしはそう長くは続かない。と言うより肉体的にも続けることはできないだろう。今の生活に悔いは微塵もないが、長期運用には向いていなさそうだというのが2年目に入ってからの印象だ。連日、400人を超える患者を目の前にしている。定時で上がることの方が難しい暮らしの中、私の意志とは裏腹にどんどん追い立てられるような中にいて、鈍い危機感がほんの少しだけ芽生えている。

5月頃に匿ってもらうような心地で本屋を訪れたことがある。私にとっての本屋とは昔からそういう場所だった。山岳関係の本や旅行記などの棚を見上げながらぼんやりと「遠くへ行きたい」と思ったことを覚えている。つまりそのときの自分は遠くへ行けていないということだった。詩集をの背表紙を見つめながら「暮らしを愛せるだろうか」と思ったことも覚えている。つまりあの頃の自分にはそれができていなかったということだった。気づいてからはすこしの間愕然とし、すぐに軌道修正をするべく舵を取り直した。この船はいつか転覆するのだろうか。しないとは思うが、されたら困る。私が私にしてやれるのは、この船を沈めず、楽しみながらなるべく長く浮かしてやることだ。再び沖に出たからには。

そう深刻に捉えてはいないが、再び気を引き締めるような日々が続いている。上手くやっていきましょうね、と自分で自分の肩を叩いてやった。4連休はあっという間だったがまだ夏は続く。続くからには楽しもうね。賑やかで、静かでよい休暇だった。夏にやりたいことを一通り済ませたのだし、明日からまた腰をあげることとする。どっこいせ。

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おろしたてのサンダル、それから映画

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昨日とはうって変わってよく晴れた日だ。気温は30°を超えていて、紛うことなき夏だった。何となく伸ばしている髪は今や肩甲骨を覆い隠すほどまでになっている。梅雨の頃は意識していなかったが、最近やっぱり凄く暑いのではということに気づいてしまった。上げた髪を大きなゴールドのクリップで挟んで纏め、麻のパンツを履く。白い厚底のサンダルをおろし、街に繰り出した。電車に揺られながらずっと読みたかったノーラ・エレン・グロースの『みんなが手話で話した島』を読み進めていく。私は栞というものを大抵すぐにどこかへやってしまいキリがない。栞をまったく持っていないわけではないけれど、10代の頃からショップカードを貰ってはそれらを栞にして活用することにしている。ちょうど名古屋に訪れた際にモーニングを食べだカフェのものがあった。薄黄色の小洒落たデザインがとても嬉しい。

昨日は喫茶店で硝子の横長の器に盛り付けられたプリンアラモードを食べたのだから、今日はアイスの類いは禁止。とは言え映画までの短い時間に何を食べれば良いのだろうかと悩んでいるとうどん屋を見つけた。鴨肉が3枚乗せられた冷やしだしうどんを頼み、少し待つ。程なくして運ばれてきたつゆの中には薄く切られた柚子が浮いていた。

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麺類と柚子の組み合わせに出逢うと、決まって思い出す光景がある。それはまだ私が大学1年生の頃で、山へ向かうべく、先輩の運転する4人乗りの四角い車に乗っていた。夜遅い時間にキャンプ地に合流しなければならず、よりにもよってなかなかの雨の中私たちはひたすらに車を走らせていた。真っ暗な車内にはでんぱ組のアルバムが流れ続けていた。そろそろ山に近づいてきた頃に、ふと先輩が私に言った。

「おいしいラーメン屋があるから寄っていこう」

時計を見ると23時を過ぎていた。こんな時間にラーメンを食べたことはなかった。ドキドキしながら駐車場に降り立つと、今度はさらに驚いた。23時だというのに、しかも雨なのに列が出来ている。こんな遅くに、雨の中、それでも並んででも食べたいラーメンって一体なに……?暖簾をくぐった先で出てきたのは上品な見た目をした柚子塩ラーメンだった。あんまりにも佇まいが立派で、まだ10代だった私はすこし緊張しながらたいらげた。今になってしまうと、店の名前も、あれが何県だったのかさえもわからない。それでも時折こうして思い出すほどには良い夜だった。私が覚えていることいえば、汁が透き通った黄金色だったこと。白髪ネギと柚子が浮いていたこと。窓の外は真っ暗で、店の中だけがぼんやりとした明るさに包まれていたこと。降り頻る雨が冷たかったこと。それから、その後の私たちが先輩の運転の荒さに笑いながら文句を零したこと。

 

懐かしいことを思い出しながら、どこか懐かしい気持ちになる映画を観た。シャーロット・ウェルズ監督の『aftersun』。この映画を観ている最中、私はどこかしら不安だった。今に酷いことが起こるんじゃないかと気を焼いた。結果として、別にそんなことはない。そもそもこの映画には特別なことは何も起こらない。起こらないまま、言葉少なにシーンは進んでゆく。意図的に排除されているのだろう、と思った。つまり、言葉にされているものたちは本当に必要なものなのだろうとも。

最後のカットが過ぎ、エンドロールが流れ出す。不思議な気持ちでいた。置き場に少し困るような、なのにどうにも気になるような心地。映画館を出てから、日差しがすこし傾いたのを良いことにベンチに座って小説の続きを読んだ。あまり集中できなくて、立ち上がって緑や花を眺めに行く。街の中に流れる水を眺めたりしながら、結局はやっぱり暑くて駅へ戻った。

電車に揺られながら、映画のことを思い出す。知りたいと思った。まさに、ソフィが劇中にそれを求め続けたみたいに。やがて監督のインタビュー記事に辿り着き、読みながら少し泣いた。

わからない。分かり合えない。あなたの世界は私には見えず、私の世界もあなたには見えない。けれど、それでも、だからこそ、と見詰める眼差しのことを思う。わからなくとも共に居ることはできる。全てを知ることが愛なのではない。同時に、寄り添うために知りたいと願うこともまた、愛なのだと思う。どちらもあなたの姿を見ようとしていることに違いはない。

 

不思議な映画だった。叶うならばあともう1度観たいと思う。

スープという寄る辺

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何が食べたいかよく分からない/何を食べたらいいのかよく分からないとき、スープストックがあって本当に良かった、と思う機会が幾度とある。ときどき私は街のど真ん中で、本当にどうしたらいいか分からなくて立ち竦んでしまうのだが、そういうとき確実に寄る辺になってくれている。

調子のよろしくないときに限った話ではあるが、同様のことが例えばスーパーマーケットでも起こりうる。商品が連なりすぎた背の高い棚に囲まれていると、「決めなくては」という圧迫感に駆られてしまい気持ちが滅入ることがある。混乱というものがとにかく苦手だ。だからこそスープストックは困ったら向かう場所のひとつになる。なにせ最初からスープしかない。たまにお粥があったり、常にカレーがあったりはするけれど。

もっとしっかりとした食事(と言うと、まるでスープが杜撰な食べものみたいで良くない。そんなことはまるでない。だから正確には「もっとしっかりとボリュームのある食事」である。)では手を余してしまうようなときでもスープだと丁度よく身体に収まってくれる。スプーンで食べることができる という点も私にとっては魅力を感じる。

クレソンと肉団子の入った黒酢の中華スープを食べた。食べきることに苦戦したが、今日の自分の胃の容量はこのくらいなんだなと考えることにした。気落ちする必要はさほどない。中華スープにパンが浮いているのを見るのははじめてだったが、味が濃くて にも関わらずさっぱりとした口あたりでおいしかった。夏バテをしないためにもぼちぼち食欲を取り戻していくぞと意気込んで店を後にした。

そういえば朝から髪を染めた。このところ赤みのあるブラウンがちだった髪を一新し、結構暗くしてみた。暗いのはあまり似合わないと決めつけ続けた数年間だったが、意外としっくりくるのでは?実際、とても綺麗に色を入れていただいた。この髪色ならシルバーのアクセサリーも似合いそう と嬉しくなる。嬉しいついでにアクセサリーも新調した。アクセサリー類のことをお守りだと思っている。このところ何かにつけてアクセサリーが増えているのは、だからそういうことなのかもしれない。……いいえ、やっぱり単に言い訳が欲しいだけかも。暮らしには工夫が必要なのだと嘯きながら生きている。

シルバーの指輪とバングルを新調した。指輪は一部が硝子でできているデザインのもので、硝子の部分が透き通って光を反射するさまがしゃぼん玉みたいで見蕩れて選んだ。夏の盛りにこれらを着けているところを想像すると嬉しい気分になる。

 

ようやく薬が効いてきたのか、あるいはたまたまそういう日だったのかはわからないが今日は調子がよい方だった。前者であってくれると有り難い。週末には楽しい予定がある。月末にはシャチを見に行く。胸が踊るね、どれもこれも。だから健やかでいよう。それにしてもこの日記はつくづく不調時のメモめいている。可哀想な使い方をしていると思うが、まあいいか。ここは私のための場所なので。