鯨を飲む

くうねるところ のむところ

酔う夜に文字を食む

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冷え込んでからというもの、急にシルバーのアクセサリーを好み始めた。どれもこれも華奢でシンプルなものばかりで、ニットに合わせると首周りが大変かわいくてよい。中でも数年前、母から譲り受けたティファニーのネックレスを気に入っている。最近思い立って箱から取り出したとき、なんとなく「これは私を守ってくれるものだ」と感じた。首にさげた自分の星座。私と母の誕生日は数日しか違わない。

 

今朝は起きた瞬間から「お酒が呑みたい」と思った。けれど私は昼からバイクを走らせ大学へ行かなければならず、一日中何を食べ、何を呑むかを考えて過ごしていた。ビールを1缶飲んだあと、大好きな焼酎をあけ、氷をいれたグラスに注ぐ。鼻に抜ける癖のある香りと、滲みいるアルコールが心地いい。久々に呑みながら、やっぱり私は芋焼酎が好きだなあと感じていた。ラスティネイルとかああいう癖のある風味の中にある甘さ、みたいなものがすきなのだ。アルコールで軽やかな頭で、先日購入した「文藝2020春」を読む。こういう夜がたまらなくいとおしい。ソファに身を埋めて、気に入りのカスタード色のブランケットに包まりながら。アルコールはとっくに抜けていて、さっきからあともう1杯を悩んでいるところだ。

 

年が明けてからというの、心の端の方に刺さったままのものがある。大した痛みもないものの未だ抜けきらず、そのせいで妙に気持ち悪い思いをしている。

「あなたの身体では一般企業で働くのは無理なんじゃないか」「はやく結婚すればいいんじゃないか」

勝手なこと言うな、ここにいる全員ぶちのめしてやろうか。とサワーを舐めた私は頗る元気な人間だ。私は私のことを、随分元気になったと思っている。ほんの2.3年前ならきっと夜の地下街で泣いていた。実際ここ10年間のことを考えれば、多分一番コンディションがよい。けれどそれには今の、かぎりなく時間が自由で、身にやさしい環境よるものなのだと思う。楽なリズムで暮らしているのだから、そりゃあ当然だ。だからこそ、わからなくなっているのも事実だ。私は本当のところ、どこまで元気なのかということが。

これまでの人生で、私の言う元気と 他人の言う元気とでは明確な差があることを知っていて。だから私は、今の私にはなにが、どこまでできるのかということが上手く測れずにいる。手持ち無沙汰なのだと思う。他でもない自分が、自分のことを。本当に、つくづくままならない。

一方で、このことを深刻に捉えてもいないことも事実で、ようやく私は様々なことに、腹を括ることができるようになってきたのかもしれない。昔ほど嘆いたり悲しんだりはしていない。無いものに対して無いことを嘆いても仕方がない、という ある種の諦めが芽生えたのかもしれない。あるいは、受け入れる支度が整ったのかも。結局のところ、なるようにしかならないのだし、流れに身を任せるくらいでいいのかも、とも思う。特に私みたいに大袈裟な人間にはね。あわよくば、ままならなさすら楽しめるような気概が欲しいけれど、さすがにこれは欲張りだろうし(ゆくゆくはそうなれたらいい。35歳くらいのときにでも)。

どれだけ緻密に計画を立てて、どれだけコツコツ積み重ねても。それらが一気に崩れ落ちることが、人生にはある。そもそも最終的に私たちの肉体は朽ちて、魂は完膚なきまでに消え去るのだから、生きていようが死んでいようが、そこに大きな差異はないんじゃないか、とも思っていた。どうせすべて、無くなっちゃうのだし。正直なところ、未だに私には生きることと死んでいることの違いがよくわからずにいる。だから頑張る意味がわからないということでもないのだけれど、頑張らずとも生きてゆけるし、生きていてよいのだと 今の私は思う。明日の私がどうか、10年後の私がどうかは知らない。知らないけど生きてゆく。生きることはちっとも大袈裟なことではないから。そんな立派に気負わなくても済むものだから。文鳥と一緒におおきな本棚のある部屋で暮らしたいって、何者かにならなくても、それで物凄くワクワクするからね、私は。誰にもわからない未来のことでいちいち怯えたりしてるのって、馬鹿らしくはないけれど、なんだか味のしない煎餅を食べてるみたいだなって思う。あんまりおいしくないし、楽しくもない。だからもう怯えなくていいや。ブログにこんなことを書いちゃっている時点で、やっぱり大袈裟なのかもしれないけれど。