鯨を飲む

くうねるところ のむところ

夏を煮込む

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毎月必ずひとつ、決めごとのようにニキビができる。時期さえバラバラであるものの律儀というか、もはや従順ささえ感じる。

なかなか思うように外出ができず、燻ってしまう夏をどうにか楽しむためにかごバッグを買った。貧乏性というか大雑把というか「どうせ買うならオールシーズン使える方が得だ」と思ってしまいがちなのだけれど、一方で季節に即しながら物を大切に扱いたいとも思っていた。新調したかごバッグは素晴らしく手馴染みがよく、持つたびに背筋が伸びる。

連休最終日、昼間から夏野菜カレーを煮ていた。暑い台所でおくらの下処理をしたり、茄子や獅子唐をオリーヴオイルで炒めていく。おくらの下処理はやや面倒で、塩もみをすると手がひりひりと痛くなるのに、おいしいので全部許してしまう。

 

‪日々、様々なことに対して憤ることがあって(社会や、政治や、法制度や、人などについて)、様々なものを嫌いになってしまいそうになったり、いっそ嫌いになることだってある。特にこの、社会全体が混乱の渦中にあり、様々なものが摩耗している時分には。

世界や社会はろくでもないものだ、というのは前提でさえあるということを受け入れている。以前、友人と話したときに「あなたは人間を好きとか嫌いとかじゃなくて、そもそも興味がないでしょう」と言われたことがある。その通りだと今も思っている。愛だのなんだのの前に、まず私はいつだって自我をけっして手放さず、尊重と無関心の間で生きていたい。

怒りっぱなしの人ほど隙があり余裕が無いように思うのでそのような状態にはなりたくない。冷静さを失ってしまうリスクの高さを恐れてなんとか怒りを飲み下そうとする。一方で、怒りを正しく感じることがどれだけ立派で、大切であるかも感じている。怒りの瞬発力を衰えさせてはいけないとも。でなければ一生、傷ついたままの自分を内に飼わなければならなくなる。そういう人たちを随分見てきた。宙ぶらりんに吊るされたままの、行き場をなくした怒りたち。そして悲しみ。愛想笑いなんてかなぐり捨ててやればいい。私たちは日々、何者か(或いは社会)から怒りを収めることを望まれていて、さもそれが善いことのように振る舞うけれど。怒りを持つことはあまりに膨大で、酷く草臥れてしまうけれど。

私は正しいタイミングで怒りを持っていたいと思う。怒りや痛みは無理にねじ伏せるものではないのだと思っている。怒ることはときに自分の身すら守るのだと知っている。煮込んだカレーをもりもり食べながら思う。まだまだ暑い、暑い夏だ。