鯨を飲む

くうねるところ のむところ

淡い春、つめたい雨

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私の好きなもの。しずかで、ひっそりとしていて、少しのつめたさがあるもの。つめたさというのは別に、アイスクリームが好きだとか、冷えた飲みものが好きだとか、そういうわけではない。飲みものはあたたかい方が好きだし、アイスクリームだって未だ日常に根ざしてはいない。(だから特別な感じがする。)そうではなく、恐らくは少しの寒々しさが好きなのだと思う。あるいはさみしさ。幼い頃から何度も見上げ続けてきた丸裸の暗い木々たちが、真っ白な雪に覆われている風景が、もしかすると根付いているのかもしれない。しんしんと此方へ向かって降る、白くてつめたい雪。私の呼吸と、雪と、空と、山しかない、あの静寂。芯からの無音。私にとっての原風景。

 

騒がしいものがきっとあまり得意ではない。友達と馬鹿みたいに笑い合うのだって好きだけど、そもそもとして。だから時おりこうして、ある種逃げ惑うみたいにしずけさを探し求めることがある。学生時代を思い出す。気を許した友人らと昼食をとり、語らう昼休みでも私は時々彼女らを置いてひとりで図書室を訪れたりしていた。しずかな図書室の端の方で背の高い棚を見上げながら酷く落ち着いていた。人が嫌いなわけではない。ただ、私という生きものにとってそれが必要であると言うだけの話だと思っている。気が済むまでそうしたら教室へ戻る。彼女たちは私を迎え入れてくれる。

 

からしっかりと、けれど音もなく雨が降っていた。お気に入りの香水を身にまとい、電車に乗り、降り立ったことのない駅へと向かう。閑静かつ入り組んだ住宅街を進んでゆき、物静かなカフェにたどり着いた。日曜日だから混んでしまうかもと思い開店後割りと直ぐくらいに店内へ踏み込み、パフェと珈琲を注文する。一人がけの席をご利用くださいと促され、木製の階段を上がってゆけば私以外に同じくひとりで訪れたらしいひとが居るだけだった。背中を向けたまま、読み物に耽る姿からは年齢はいまいちはかれない。歳上かもしれないし、歳下かもしれない。静かに通り過ぎ、窓側に備えられた一人がけのカリモクのソファに腰を落とした。窓から雨でぐっしょりと濡れた瓦屋根と、向かいのアパートと、軒先に植えられた緑が見える。

思えば私はパフェを食べた記憶が人生において本当に数える程しかない。もしかすると片手で足りてしまうかもしれない。背の高いパフェははじめてなような気がする。理由は至極簡単で、単純に甘いものがそうまで得意ではないから。それでもこんな日にはパフェが食べてみたかった。佇まいに惹かれたというのもある。運ばれてきたパフェはびっくりするくらい容易く平らげてしまった。生クリームではなくてパンナコッタだから甘さが控えめで、やさしくて、するりと長いパフェスプーンが嬉しかった。

 

私ともうひとりしか居ない空間は、あまりにも静かだった。一番壁側の席と、一番窓際の席。控えめにかけられたピアノ音楽や女性ボーカルのジャズなどが、何ひとつ引っかかることなく流れてゆく。あまりの心地よさに、濡れる窓を眺めながら途中何度か、本当にすこしだけ泣いてしまいそうにもなった。彼と私の間にある、何の取り決めもないにも関わらず、均衡の取れたこの静寂にいつまでも身を委ねて居たかったということもある。秩序立った何かが確かに生きづいていたような気さえした。(別に彼が退店しても構わなかった。ただ、他者が居るにも関わらず、守られ続ける静寂というものに対して愛着とありがたみがあるのだと思う。)(彼にとってはそんな感慨は全くないと思うけれど。) ああ、でも雨の力も大きい気がする。雨の日特有の光の少なさ。薄暗い店内。しんとしたつめたさ。

顔を上げる度に天井からぶら下がった豆電球の淡い光が視界に止まる。ああ、好きだ、と思った。時おり通り過ぎてゆく人の傘の色を眺めながら、持ってきていた宮地尚子著『傷を愛せるか』を取り出して続きから読む。私ひとりでは到底手が伸びなかったであろうエッセイを黙々と読み進めてゆく。おそらく避けてきていたのだと思う。今となっては可及的速やかな必要性が見受けられなかったからというのもあるし、ナイーヴなものを突っぱねたかったのかもしれない。今だからこそ触れられるものが幾らかあるのだろう。

程なくして、日曜日の昼頃らしくお喋り目的の顧客が増え始める。カフェなのだから当然だった。彼は少し前に席を立ち、店を後にしていた。横顔は私より若かったように思う。どうしようかと思案し、やはりもう少しばかりは此処に居ようと思い、階下であたたかいチャイを注文した。チャイというのもあまり馴染みがなかった。言葉を聞いても味がパッと思い出せないくらいには輪郭がぼんやりとしている。運ばれてきたチャイはいい匂いがして、少しぬるめで、飲みやすくておいしい。尖ったところが全くなくて、私は再びページを捲ってゆく。

本格的に店内に人が増えてきた頃に店を後にした。パフェをすくっていた際のあの静寂が無性に恋しかった。でも静寂は多分あまり長くは続かない。また来よう。次は日曜日の朝か、あるいは平日に。

外に出ると雨は降り続いていて、誰も人が居なくて、つめたくてしずかだった。そういったものたちを隅々まで行き届かせたくて、見知らぬ街をただ歩いてゆく。雨だからと言って家に籠らずにいてよかった。雨だからこその今日だったように思うから。知らない街の知らない公園で桜を見た。何だかんだで今年初の桜である。