鯨を飲む

くうねるところ のむところ

バカンスにて

休暇1日目。程々に早めの時間に起き、やや小ぶりのトマトを丸々食べた。身支度を済ませたら電車を使って普段は降りない駅へ向かう。夏休みが来たらホットストーンを使ったマッサージへ行くと決めていたからだ。施術を受ける前に色も形も厚さも様々な石を並べられて「好きな石を選んでください」と言われた。そういうのもあるんですねと問えば、身体の一番悪いところに置いて、悪いものを吸ってもらうのだと言われる。スピリチュアル的な物事に対する関心は薄い性だが、郷に入っては郷に従えだ。すべすべした表面を指の腹でなぞったり、手のひらに置いて重さを確認したりした。少しの時間をかけたのち、薄くて平べったい、色のやや濃い石を選んだ。表面がすべすべしていた。

レモングラスのアロマを選び、部屋に通され施術を受けた。一頻り終えた後、すっきりした身体でいれば「力を入れるのは得意だけど抜くのは下手ですね」と言われる。思い当たる節しかないような言葉に苦笑しながら店を後にした。どこへ行っても呼吸の浅さを指摘されてばかりいるのだ。一度良かったらとヨガ教室にも誘われた。実際に続けるかはさておき、行ってみてもいいかもしれないと来月の予定を脳内でこねくり回してみる。とりあえずやる、とか、したことがないからとりあえずしてみるとか、そういったことを大切にしている。好奇心の赴くまま、好き勝手にふらふらするのが好きなのだろう。

照り返しの強いアスファルトは茹だっており、とてもじゃないけど歩き続けられる気がしない。メトロを使い、家へと向かった。帰ってからは久々にTRICKを1話から見返していた。やはりほの暗さと不気味さとユーモアの塩梅が最高だった。観ていて元気が出る。とは言え新品のキャリーケースに荷物を纏め、翌日に備えてなるべく早く眠りにつく。少しの間のバカンスが始まるからだ。

 

車を走らせ、山を超え、橋を超える。眼前に広がる瀬戸内海の青を眺めていた。この辺りの海は陽気を纏っていて酷く穏やかだ。積み重なるテトラポットを眺めるのが昔から特に好きだった。この旅行のために用意した爪は海色で、視界に入るたびにきらきらと光っていて胸が踊る。おいしいパンケーキを食べてから見頃を迎えたクレメオの花畑を訪れた。ハンディファンが無いことにはどうにもならないような暑さの中、日照りを受けながら丘の上から海が見えた。大地の広さを感じながら暫くそうしていた。途中で買った瓶ビール2本(地ビール)を持ちながら道を歩いてゆく。前にも以前、そんなことがあった。旅先の酒屋で見つけた地ビールを2本抱えたまま、急勾配の坂をひとり登っていったこと。あのあとは布団を敷いてもいない畳の上で、夕食が運ばれてくるまでの間死んだように眠っていた。

とにかく夏らしいことを全てし尽くしてしまおうということで、買ったばかりのビールを飲みながらBBQで肉を焼き、薪を重ねて火を灯し、マシュマロを焼いたり手持ち花火をしたりした。汗だくになりながらごはんを食べるのって疲れるのに楽しいから困る。その頃になるとすっかり眠くて、22時を過ぎた頃にはベッドに入り眠りについた。自然な眠りはいつぶりだろうと考える。昔から眠くなったから寝る、ということが少ないように思う。眠るから眠る、と意志を持っての睡眠がかなり多い。旅先ではどうしたって生活リズムが整うので自然と寝付けるのだろう。

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朝になるとひとりで部屋を抜け出し、スマートフォンとハンディファンを手に歩いて7、8分の場所にある海水浴場まで向かう。朝の6時頃でもすっかりと夏らしい日差しが降り注いでおり、周囲に民家の少ない田舎の道はただひたすらに暑い。日陰に逃げ惑うこともできないまま、それでも海を目指していた。道を進むさなかに音が割れるほどの大音量でラジオを流す家があった。隣接した家屋があまりに少ないためか、音についてはある程度寛容なのだろうか。遠ざかるラジオの音を聴きながらずんずんと歩いてゆく。

朝のうっすらと透明な海がすきだ。幾度と私が見てきたのは南紀の海であるが、また違う面持ちをしている。人っ子一人いない海水浴場はどこかもの寂しくもありつつ、私はこんなに広い海を独り占めできることに機嫌を良くする。転ばないように足を海水につけ、海の先を見ていた。

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空と海の境が曖昧な朝が好きだ。やがてやはり暑くなり、坂道を登って部屋へと帰る。帰った頃には妹はまだ眠っていた。少し待っていると電子アラームが鳴り、やがてうっすらと瞳が開かれる。

起きてからは再び島中を巡り始める。丘の上から海を眺めたり、とびきりおいしいハンバーガーを食べたり、港へ向かって船に乗り、潮が生み出す渦を近くから見たり、顔中に潮風を感じたり。椅子に座り、扇風機の風を受けながらうたた寝をする妹をよそに津波防災に関する施設を訪れたりもした。

そうしてまた沢山眠って、やがて帰路につく。島での夜は静かだった。薪の火を消したあと、空を眺めると普段よりもよく星が見えていた。けれども昔、私がまだ14歳の頃にオーストラリアで見上げた夜空以上の空には未だ出会えていない。あのときの私は自らのちっぽけさを痛感して、そのことがじんわりと嬉しかった。鯨を見るときの心の収まり方とよく似ている。

今年の春くらいからずっとじりじりと脳の容量が減っているのを感じていて、仕事が占める割合が増しているためなのか己の淡白さなのかを測りかねている。おそらく殆ど仕事のせいなのだが、とは言えどちらとも言えそうだなというのが結論。最近は特に物事や人に対して丁寧さを欠いている自覚がある。全てに触れることはできないし、取りこぼすものもきっと多い。それについて諦めのような、割り切りのような仕方のなさを感じてもいる。好きにさせてもらおうと言うのが着地点。

もうずっと、今この時を含むこれから先の時間のことを余生だと感じながら日々を送っている。それが変わることは今のところ相変わらず無さそうだが、余生にしては慌しすぎるかもとも思う。多分この暮らしはそう長くは続かない。と言うより肉体的にも続けることはできないだろう。今の生活に悔いは微塵もないが、長期運用には向いていなさそうだというのが2年目に入ってからの印象だ。連日、400人を超える患者を目の前にしている。定時で上がることの方が難しい暮らしの中、私の意志とは裏腹にどんどん追い立てられるような中にいて、鈍い危機感がほんの少しだけ芽生えている。

5月頃に匿ってもらうような心地で本屋を訪れたことがある。私にとっての本屋とは昔からそういう場所だった。山岳関係の本や旅行記などの棚を見上げながらぼんやりと「遠くへ行きたい」と思ったことを覚えている。つまりそのときの自分は遠くへ行けていないということだった。詩集をの背表紙を見つめながら「暮らしを愛せるだろうか」と思ったことも覚えている。つまりあの頃の自分にはそれができていなかったということだった。気づいてからはすこしの間愕然とし、すぐに軌道修正をするべく舵を取り直した。この船はいつか転覆するのだろうか。しないとは思うが、されたら困る。私が私にしてやれるのは、この船を沈めず、楽しみながらなるべく長く浮かしてやることだ。再び沖に出たからには。

そう深刻に捉えてはいないが、再び気を引き締めるような日々が続いている。上手くやっていきましょうね、と自分で自分の肩を叩いてやった。4連休はあっという間だったがまだ夏は続く。続くからには楽しもうね。賑やかで、静かでよい休暇だった。夏にやりたいことを一通り済ませたのだし、明日からまた腰をあげることとする。どっこいせ。

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