鯨を飲む

くうねるところ のむところ

おろしたてのサンダル、それから映画

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昨日とはうって変わってよく晴れた日だ。気温は30°を超えていて、紛うことなき夏だった。何となく伸ばしている髪は今や肩甲骨を覆い隠すほどまでになっている。梅雨の頃は意識していなかったが、最近やっぱり凄く暑いのではということに気づいてしまった。上げた髪を大きなゴールドのクリップで挟んで纏め、麻のパンツを履く。白い厚底のサンダルをおろし、街に繰り出した。電車に揺られながらずっと読みたかったノーラ・エレン・グロースの『みんなが手話で話した島』を読み進めていく。私は栞というものを大抵すぐにどこかへやってしまいキリがない。栞をまったく持っていないわけではないけれど、10代の頃からショップカードを貰ってはそれらを栞にして活用することにしている。ちょうど名古屋に訪れた際にモーニングを食べだカフェのものがあった。薄黄色の小洒落たデザインがとても嬉しい。

昨日は喫茶店で硝子の横長の器に盛り付けられたプリンアラモードを食べたのだから、今日はアイスの類いは禁止。とは言え映画までの短い時間に何を食べれば良いのだろうかと悩んでいるとうどん屋を見つけた。鴨肉が3枚乗せられた冷やしだしうどんを頼み、少し待つ。程なくして運ばれてきたつゆの中には薄く切られた柚子が浮いていた。

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麺類と柚子の組み合わせに出逢うと、決まって思い出す光景がある。それはまだ私が大学1年生の頃で、山へ向かうべく、先輩の運転する4人乗りの四角い車に乗っていた。夜遅い時間にキャンプ地に合流しなければならず、よりにもよってなかなかの雨の中私たちはひたすらに車を走らせていた。真っ暗な車内にはでんぱ組のアルバムが流れ続けていた。そろそろ山に近づいてきた頃に、ふと先輩が私に言った。

「おいしいラーメン屋があるから寄っていこう」

時計を見ると23時を過ぎていた。こんな時間にラーメンを食べたことはなかった。ドキドキしながら駐車場に降り立つと、今度はさらに驚いた。23時だというのに、しかも雨なのに列が出来ている。こんな遅くに、雨の中、それでも並んででも食べたいラーメンって一体なに……?暖簾をくぐった先で出てきたのは上品な見た目をした柚子塩ラーメンだった。あんまりにも佇まいが立派で、まだ10代だった私はすこし緊張しながらたいらげた。今になってしまうと、店の名前も、あれが何県だったのかさえもわからない。それでも時折こうして思い出すほどには良い夜だった。私が覚えていることいえば、汁が透き通った黄金色だったこと。白髪ネギと柚子が浮いていたこと。窓の外は真っ暗で、店の中だけがぼんやりとした明るさに包まれていたこと。降り頻る雨が冷たかったこと。それから、その後の私たちが先輩の運転の荒さに笑いながら文句を零したこと。

 

懐かしいことを思い出しながら、どこか懐かしい気持ちになる映画を観た。シャーロット・ウェルズ監督の『aftersun』。この映画を観ている最中、私はどこかしら不安だった。今に酷いことが起こるんじゃないかと気を焼いた。結果として、別にそんなことはない。そもそもこの映画には特別なことは何も起こらない。起こらないまま、言葉少なにシーンは進んでゆく。意図的に排除されているのだろう、と思った。つまり、言葉にされているものたちは本当に必要なものなのだろうとも。

最後のカットが過ぎ、エンドロールが流れ出す。不思議な気持ちでいた。置き場に少し困るような、なのにどうにも気になるような心地。映画館を出てから、日差しがすこし傾いたのを良いことにベンチに座って小説の続きを読んだ。あまり集中できなくて、立ち上がって緑や花を眺めに行く。街の中に流れる水を眺めたりしながら、結局はやっぱり暑くて駅へ戻った。

電車に揺られながら、映画のことを思い出す。知りたいと思った。まさに、ソフィが劇中にそれを求め続けたみたいに。やがて監督のインタビュー記事に辿り着き、読みながら少し泣いた。

わからない。分かり合えない。あなたの世界は私には見えず、私の世界もあなたには見えない。けれど、それでも、だからこそ、と見詰める眼差しのことを思う。わからなくとも共に居ることはできる。全てを知ることが愛なのではない。同時に、寄り添うために知りたいと願うこともまた、愛なのだと思う。どちらもあなたの姿を見ようとしていることに違いはない。

 

不思議な映画だった。叶うならばあともう1度観たいと思う。